女の友情は、優劣が生まれた瞬間から壊れていく。
最初は低予算のインディーズ作品だろうと思い軽く再生しましたが、全編ほぼ2人の主人公の女性の表情とリアクションで構成されているところが興味深く、想像以上に心の奥をえぐってくる内容だったので、心理学的な視点も交えてレビューしました。
タイトルを見たとき、黒人女性の話かと思いましたが、面白いことに黒人はおろか、有色人種が一人も出てこなかったので、悪趣味なブラックユーモアなのかな?とも思いましたが、
観終わって気づくのは、「ブラック」とは彼女たちの心の奥に沈んだ闇の色だということ。
監督Ashley Avisは、このタイトルの由来については明言していないようですが、
タイトルからしてなかなかのインパクトです。
似ているようで真逆の二人
アンナとベス。
駆け出しの頃からの親友でお互いをサポートし合う関係。
ですが、ちょっとした運とタイミングのズレでやがて同じ場所に立てなくなる。
アンナは宣伝用のポートレートや歯の矯正に大金を次ぎこんだものの仕事がなく、万年金欠。
それでも、まだ自分には可能性があると信じている。
その信念こそが、彼女のぎりぎりの支えでした。
その一方、ベスは小さな成功を掴んでいた。
けれど、それは演技の実力ではなく“セクシャルアイコン”としての注目。
演技力や才能ではアンナのほうが実は格上。
その現実を、ベスは誰よりも痛感している。
だからこそ、彼女はアンナの前で“余裕ある女”を演じ続けます。
それは友情というより、防衛であり保身。
一方でアンナも、
「ベスは見た目で選ばれた」「運が良かっただけ」と思うことで、
自尊心の均衡を保っていた。
互いに相手を必要としながら、
どこかで見下し、どこかで羨んでいる。
その微妙なバランスが、二人の関係を成立させていた。
週末の逃避行、波乱の予感
ベスが提案したガールズ・ゲッタウェイ。
アンナの叔母が所有するキャビンで、久しぶりに二人きりの時間を過ごすことになった。
近隣にあるベイカリーでコーヒーを飲みながら、
二人は共通の知人の話をしていた。
その男がかつて「アンナのことが気になる」と言っていたのを、
ベスはアンナに告白するが、アンナにとっては青天の霹靂。
意図的に黙っていたのか、
無意識の嫉妬だったのかはわからない。
ただ、その小さな沈黙が二人の間に薄い膜のような違和感を残す。
キャビンでのシーン。
ポーチでワインを飲む二人。
アンナが言う。
「あなたは好きなことで食べれてラッキーよ。」
「でも、イプセンみたいな作品はやってない。」と自虐するベス。(意識高めの舞台などはやっていないという意味なのでしょう。)
「ウェイトレスよりましでしょ。」ベスの自虐に重ねるアンナの自虐に、同情的なベスの眼差し。
ベスは“アンナと対等でいたい”という気持ちと、
“自分はすでに彼女に勝っている”という矛盾の間で揺れ動いている。
アンナは、そんなベスのしらじらしい優しさに小さな苛立ちを覚える。
女同士の友情は、ある意味共感の上でしか保てないところがある。
どちらかがわずかに浮上すると、その関係は途端にぎこちなくなる——。
選ばれない女
暖炉のあるキャビン近くのバー。
2人がカクテルを飲んでいると、
カウンターの中年エグゼクティブ風の男性が微笑みかける。
3人は同席し、アンナは男の注目を浴びようと必死で話に合わせる。
その笑顔には、“選ばれたい”という焦りが滲んでいた。
ベスはそれを見つめながら、退屈そうにグラスを傾ける。
男に媚びるステージはもう過ぎたとでも言いたげな余裕。
その目には、優しさとも倦怠ともつかない光が宿っていた。
その余裕こそが、アンナをいら立たせる。
やがてベスがトイレに立つ。
男の視線が泳ぎ性的な視線でベスの後ろ姿を見つめる。
会計を装って店を出るふりをした彼は、ベスのあとを追う。
そして電話番号を聞き出すその光景を、アンナは目撃してしまう。
長い会話をしていたにも関わらず、男はベスの名前は憶えていてアンナの名前は忘れている、という小さなカットもズキっとくる。
またしても、努力する自分は見向きもされず、
何もしないベスが選ばれる。
その現実を前に、アンナの自己肯定感は音を立てて崩れていく。
トイレの鏡に映る自分を見つめ、
「私の何がいけないの?」と問いかけるような沈黙。
その表情が、この作品の本質を語っているようでもあります。
度重なるすれ違い
冒頭10分ほどのシーン。
街で偶然、知り合いの映画監督に出会う。
彼はちょうど、二人が週末を過ごす予定の山小屋の近くで、
キャンプと短編映画の撮影場所を探しに行く予定だという。
「アンナを起用したいと思ってるんだけど、
出演料が出ないから言い出しづらくて」と、監督は少し困ったように笑った。
その場を取り繕うように、ベスは軽く笑って言う。
「アンナなら大抵なんでもやるから。」
その言葉には、からかいとも、同情ともつかない響きがあった。
けれど、ベスはその話をアンナに伝えなかった。
意図的だったのか、それとも無意識の防衛だったのか。
ベスの中では、アンナはいつも“少し下”の位置にいなければならなかった。
ほんの小さなチャンスさえ、脅威に見えるようにも取れます。
作中ではベスに露骨な悪意は感じないものの、
どこかフレネミーのような構図。
ベスはアンナの批判的な毒舌にも反論せず、一貫して同情的な態度なのも視聴者をグイグイ煽ってきます。
やがて、森の中でその監督と偶然再会します。
その場でアンナは初めて短編の話を耳にし、
ベスが自分に何も伝えていなかったことを知る。
その瞬間、空気が一変する。
沈黙の理由が嫉妬や敵意ではなく、
“自分の立場を守るための防衛反応”だったとしても、
アンナにとってそれは裏切り以外の何ものでもなかった。
長年かけて築かれた友情が、
小さな裏切りの積み重ねで崩壊。
妄想が錯綜する物語後半
はっきりとは描かれていませんが、激しい口論の末、森の中に逃げていくベスの後を追い、
「おそらくですが」山中でアンナはベスを〇害。
それは激しい怒りの感情に掻き立てられ、
“なりたい自分を奪う”という衝動だった。
このあたりは少しホラー的な描き方ですが、その後、アンナの中にベスが“憑依”する。
彼女の口調、立ち居振る舞い、伏し目がちな視線の配り方までも。
アンナは、ベスを演じながらベスそのものになっていく。
「イプセンとかには出てないわ」
ベスがかつて口にした自己否定の言葉を繰り返しながら、
アンナは自分をベスの欠落ごと取り込んでいく。
ベスになったアンナ
バーテンダーとの恋。
それは、したたかなベスが生きていたなら決して選ばなかったような
“ささやかな幸福”だった。
だがその恋は、アンナがベスの姿を借りて
「田舎町のバーで恋に落ちるような女、それが本来のベスだった」と
無意識に貶めようとしているようにも見える。
憧れの対象を模倣し、
その在り方を再現しながら、
同時に見下す。
愛と軽蔑が同居する、奇妙な同一化。
それはもはや生き写しではなく、
自分の価値を守るための復讐だった。
短いけれど独特の余韻を残す作品
個人的にこの作品は女の友情という名の幻想が、時にどれほど脆いものかを静かに突きつけてくる作品のように感じました。(もちろん女友達が必ずしもそうとは限りませんが。)
アンナもベスも、
お互いを鏡にして自我を保っている崖っぷちの女達。
けれど、鏡が割れたとき、
もうどちらの姿も映らない。
女の友情は、支え合いと張り合いの紙一重にある。
その線を越えた瞬間、愛は嫉妬に変わる。
この作品『ブラックビューティー』は、
羨望、投影、防衛、同一化――
人間の心のメカニズムをじわじわと剥き出しにする心理スリラー。
観終わったあと、
誰の中にも“ブラック(闇)”が確かにあることを思い知らされる。
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