共依存は「愛されたい」気持ちの裏返し?「毒親育ちが抱える心のクセ」

共依存

共依存って、なんなんだろう?

「共依存」という言葉を聞くと、「重たい恋愛」「依存体質」みたいなイメージを持つ人が多いけれど、

ほんとうの根っこはもっとシンプルで切実なものかもしれません。

それは、「ただ、愛されたかった」「信じてほしかった」という子どもの願いが届かなかったこと。

私は相談員として、そして自分自身の人生からも、それを痛いほど感じています。

恋愛でも友情でも、「また似たような人を選んじゃった」と、感じたことはないですか?

ダメな人、振り回す人にコントロールしてくる人…。

でもなぜか、そういう人だと頭ではわかっているのに離れることができない。

それは、単なる「見る目のなさ」や「依存体質」ではなくて、もっと根っこの深い部分…

たとえば、幼少期や思春期に満たされなかった「愛されたい」が言えなかった体験に関係していることがあります。

「信じてるよ」の一言が、どうしてももらえなかった

私自身、子どものころ親に言ってほしかった言葉があります。

それは「あなたを信じてる」の一言。

でも、実際に返ってきたのは全く逆でした。

たとえば、いじめに遭って苦しんでいたときも、

「いじめられるあんたが悪いんでしょ」と、責められるような言葉ばかり。

ほかにも、苦手なことができないことを責められる。得意なことはまったく褒めてもらえずスルー。

どれだけ勇気を出して話しても、返ってくるのは否定と突き放し。

本当は、ただ受け止めてもらって「つらかったね」「信じてるから大丈夫だよ」と言ってくれるだけでよかったのに。

傷ついた気持ちをスルーされ、向き合ってもらいたくて話しかけても強制終了。「なかったこと」にされる苦しさは、言葉にできません。

Xや毒親スレなどでも、私の母のようなテンプレ毒親がどこにでもいますよね。

うちの母のような口調で責める、突き放す、まったく同じような状況下に置かれているお若い方を見かけると、なんとかして助けたいという気分になることがしばしばあります。

親に信じてもらえなかった子供は、自分を信じられなくなります。「私が悪い」「私がダメなんだ」そうやって、他人に知らず知らずのうちに合わせて生きる癖=共依存の土台がつくられていくのです。

共依存は「愛を諦められない人」のクセだったりします。

共依存って、実はとてもけなげな愛のかたちです。それはいうなれば、「依存」ではなく「戦略」だったりします。

小さい頃に無条件に愛されなかった子供は、自分から「こうすれば愛されるかな?」と必死に工夫します。

・役に立てば愛される

・我慢すれば嫌われない

・相手の機嫌を取っていれば捨てられない

この3本の柱が、自分の命綱になってしまうのです。

親に対して学んだその戦略は、大人になっても消えるどころか人によってはより濃厚に人格に影響してしまうケースもあります。

その傾向は、対象がだれであれ(恋人、上司、友人)「顔色を窺ってしまう」「我慢しすぎて疲れる」「尽くしすぎて裏切られる」というパターンを無自覚のうちに繰り返してしまう。

本人は自責の念でいつも苦しむけれど、その背後には信じてもらえなかった、親に認めてもらえなかった自分が心のどこかで泣いているのです。

「私は愛されたことがない」と気づくのは怖い。でも、大事な第一歩

毒親育ちや共依存の人が、一番最初につまずくのがここ。

「親に愛されなかった」(認めたくない…)

「大切にされなかった」(そうは思いたくない)

こういった本当の気持ちに気づくのは、とても怖いし、苦しいことです。

でもそこを避けたままだと、「わたしは共依存なんかじゃない」「愛されてたはず」と自分を説得しながら、ずっと満たされない人間関係を繰り返すことになります。

ほんとうはただ、「あの時、寂しかった」「わかってほしかった」って言いたかっただけなんですけどね。

そこに気づいて自分に向き合うことで共依存の回復ははじまります。

いまのあなたに「信じてるよ」と言いたい

子どもの頃に欲しかった「信じてるよ」は、もう親からはもらえないかもしれない。

でも、私はいまのあなたにこう伝えたいのです。

あなたの感じていることは、間違ってない。ただ、誰かにその思いを伝えて自信をつけて本来の、ありのままの自分でいていいことを、誰かに認められればいいだけなのです。

そのさみしさも、怒りも、ちゃんと意味がある。

そして、あなたの回復には希望があるということを、私は信じています。

自らが毒親・機能不全家庭で育ち、生還したひとりのサバイバーとしてあなたの傷ついた心をそっと癒します。

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