■身内の存在さえなぜか思い出せなかった
先日、母から急にLINEが届きました。
「Y雄は何してるのかしら?」
突然の母の問いかけに、頭の中がふっと真っ白になりました。
「あれ? 生きていましたっけ……?」
そんな失礼な話が浮かぶほど、記憶が完全に抜け落ちていたのです。
母は認知症を患っているため、その都度の言葉が大切という意識が私にはあるため、
自分の記憶が確かでない場合は、迷わずほかの人にぶん投げることにしています。(笑)
「S子おばちゃんに聞いてみたら?」と返した数分後、母から再び通知が来ました。
「Y雄は亡くなっていました」
やはり、という感覚はあったものの、私自身は叔父が亡くなった事実も、おそらく、いや絶対に参列したであろう葬式の場面も、すべてが記憶から完全に抹消されていたのです。
この時、ふと永六輔さんの言葉を思い出しました。
「人間は二度死ぬ。肉体が死んだときと、人の記憶から消えたとき。」
——まさにその言葉そのものの状態を、自分が作ってしまっていたことが、胸にずしんときました。
叔父の死そのものが記憶からこぼれ落ちたこと自体がショックで、「私ってこんなに忘れる人間なのか」と,しばし呆然としました。
■ “覚えているべきこと”ほど抜けることがある
とはいえ、記憶というのは自分の意思で管理しているようで、実際は脳のほうが独自に判断している面が大きいのだと思います。
葬式のような場でも、
- 周囲への気遣い
- 形式に従うための動作
- 落ち着かない空気感
こうした要素が強いと、出来事そのものより「場をこなすこと」にエネルギーが使われてしまい、記憶が定着しにくくなります。
当時の私の心境も、不確かですが家族関係の負荷が大きかった時期だったなどで、脳がキャパオーバーを起こしていたのかもしれません。
■ 勝手に断捨離し始める能
ここ数年、自分の住む場所も働き方も、そして周囲の人間関係も大きく変わりました。
ライフステージが動くと、脳はそれに合わせて、優先順位の組み替えを始めるようです。
昔の記憶が圧縮されたり、細部がぼやけたりするのは、
「今の自分に必要な情報を先に残すための整理整頓」
のように感じます。
今回の“叔父の記憶抜け落ち”も、その整理の副産物なのだと思います。
■ 記憶は“事実”ではなく“当時の心の状態”とセット
記憶というのは、起きた出来事そのものを保存するのではなく、
その時の 心の状態ごと残す 性質があるようです。
だからこそ、
- 心が疲れていた
- 家族関係に気を取られていた
- 自分の感情を動かせない時期だった
こういう期間の出来事は、後から見直すとごっそり曖昧になっていることがあります。
忘れたように思えても、実際は「奥にしまわれている」だけなのではないでしょうか?
■ 忘れることは“薄情”だからではない
叔父のことを思い出せなかった自分にショックはありましたが、この出来事から1日が経過し、
私の頭の中ではなんとなく整理がつきました。
人は変化しながら生きています。
その変化に合わせて、脳もまた優先順位を組み替えていきます。
忘れることは悪いことではなく、
むしろ、前を向くための自然な調整のようにも思えます。
しかしながら、この出来事をきっかけに故人の若かったころを思い出すきっかけになりました。
記憶の中の叔父はまだ30代。30代の叔父は、はつらつとしていて、私の中では実は今でもどこかで元気でやっているのでは?とすら思えてきたほどです。
■ 記憶は静止画ではなく、人生と一緒に動く
今回の出来事は、記憶というものがいかに流動的で、そして脆いものかを改めて考えるきっかけになりました。
- 記憶は生き方とともに更新される
- 人生の節目には、脳も整理整頓を始める
- 忘れることは、不自然ではなく適応
そして私の中では、永六輔さんの「人間は二度死ぬ」という言葉が、以前よりも深く響くようになりました。
記憶からこぼれ落ちるということは、その人の存在にもう一度“死”が訪れるということ。
だからこそ、思い出すという行為そのものが、人へのささやかな供養なのかもしれません。

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