寄り添う?寄り添わない?
カウンセリングやサポートの現場で、よく耳にする「寄り添う」という言葉。
あたたかくて、優しくて、安心をくれるような響きがあります。
けれど、私はこの言葉に、少しだけひっかかりを感じます。
寄り添う…それは、私が相手のもとへ近づいていく一方向的な動きのように思えてしまう。
私が歩み寄り、相手はその場にいる。
そこには、知らず知らずのうちに「支える側」と「支えられる側」という構図が生まれることがあります。
もちろん、時に人は誰かに支えてもらうことで生き延びられるし前にも進める。
けれど、歩みを止めて真綿で包まれるような感覚に心地よさは感じても、その関係が長く続くと、依存や無力感を強めてしまうこともあります。
私は、それを避けたいのです。
依存が悩みの根本にあるクライエントさんの場合、そこは特に気をつけたい部分でもあります。
同じ場所に立つということ
私が大事にしているのは、「寄り添う」よりも「同じ場所に立つ」感覚です。
それは、相手の足元にある泥や石ころ、水たまりまで同じように感じながら、同じ視点から景色を眺めること。
先を歩いて引っ張るわけでも、後ろから背中を押すわけでもなく、ただ横に立つ。(必要と感じたらときに背中を押すこともありますが。)
ペースは相手が決めてもいいし、私が提案してもいい。でも、歩くリズムは一緒に作っていく。
そこには「助ける人/助けられる人」という線引きはありません。
ただ、同じ地面に立ち、同じ空気を吸い、同じ光と影を見ている…その事実だけがあります。
並んで歩くことで得られる力
人は、一人でも立てるようになったとき、本当の意味で自由を感じます。
そのためには「誰かに守られている状態」から、「自分で歩ける状態」に移る必要があります。
でもその間には、怖さや不安で足がすくむ時間があります。
だからこそ、私はその時間をクライエントさん一人で過ごさせたくない。
隣で同じ景色を見ながら、「ここにいるよ」と伝え続けたい。
それは「保護的」でも「指導的」でもない、ただの「共にいる」ということです。
不思議なことに、人は誰かと並んで歩くとき、相手から力を借りるだけではなく、自分の中の力にも気づけるようになります。
「私、こんなに歩けるんだ」と知る瞬間が来ます。答えはいつもあなたの中にあるのです。
そして、その発見こそが、サポートのゴールだと私は思っています。
最後にお伝えしたいこと
もし今、あなたが暗い道の途中にいても、私はその道を知っているから怖くありません。
一緒に立ち、一緒に歩くことができる。
寄り添うのではなく、同じ場所から。
そして、ある日あなたが一人で前を歩き出したら…その背中を見届け、静かに微笑んでいたい。それが私の仕事であり、喜びです。
だから安心してください。
歩幅は合っています。
あなたの道は、あなたが思うよりもずっと確かに続いています。
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