『Tシャツが乾くまで』の感想と考察
『Tシャツが乾くまで』を観終わって、一番印象に残ったのが、最後の「別れよっか」でした。
別れの場面なのに、私はなぜか少しホッとしたんですよね。
「ああ、やっと終わった」と。
私と同じ感想を持たれた方はいるのではないでしょうか?
二人の別れが悲しくないわけでもないし、二人の関係に嫌悪感があったからでもなく、
あのラストシーンには、安堵感のような肩の力が抜けるような感じがありました。
たぶん、ずっと作中の二人の関係を見ている間、どこかで「このままでは、きっとどんどんお互いに気持ちが離れて行ってしまう」と感じていたんだと思います。
今回は、この二人を「愛着」というところから少し考えてみました。
充は、どうして逃げてしまうのか
松山ケンイチさん演じる充には、幼い頃から何度も失踪を繰り返すクセがありました。
大人になってからも、関係が深くなったり、人生の節目に差しかかったりすると、「逃げたい」という気持ちが出てくる。
これだけを見ると、根っからの自由人で、突き動かされるままに行動する人柄のようですが、
充の過去を知っていくと、これは心理的虐待のあった家庭環境で培われた生きるための防御策なのではないか?と感じました。
子どもが、子どもでいられなかった時間
充と彼の母親との関係を見ていると、子どもにとって親の存在がどれほど大きいのかを改めて考えさせられます。
子供の存在が見えているのに全く手を焼こうとしない母。
買い物帰りも後ろを振り返るでもなくスタスタ歩き、ごはんもよそってくれない…
子どもは、自分を育ててくれる親の器の中で大きくなっていきます。
本当なら、まだ何もできない時期には誰かに甘えて、守ってもらって、安心していればいい。
ですが、その親自身に余裕がなかったり、子どもの存在を認める器がなかったりすると、子どものほうが早く大人にならざるを得なくなることがあります。
親が思っているより、子どものほうがずっと早くいろんなことを理解せざるを得ない。
「これを求めても無理なんだろうな」
親の拒絶が怖くて、甘えることができなくなる。
そして、いつの間にか親に何かを求めるより、誰の協力もなく自分一人で選択することが当たり前になっていく。
こうして育った子どもは親を理解する側に回ってしまうんですよね。
本来ならば、親が子どもの気持ちを受け止めて優しい言葉をかける、安心感を与えてあげるという役割ですが、
親の在り方によって、その順番が崩れてしまう。
愛着に傷を抱えている人の話を聞いていると、こういう「子どもでいられなかった時間」を持っている人は少なくないと感じます。
かくいう私も、そうでした。
親に何かをしてもらうことを期待するより、自分で何とかしたほうが早い。
親の事情を考えて、「仕方ない」と納得する。
泣いたりわめいたりして訴えた若かったころを思い出しますが、
やはり、母の心を動かすことができなかった私は、一人で壁に何度もぶつかりながらここまで来たことをしみじみと思い出していました。
「捨てられる前に、自分から逃げる」
充を見ていて感じたのは、そんな過去が、彼の「逃げる」という行動につながっているんじゃないかということです。
大切な人ができて、関係性が近くなると、
本来ならば安心できるはずなのに、また拒絶されるのではないか?と内心おびえてしまう。
だったら、その前に自分からいなくなってしまえばいい。
捨てられる前に、自分から逃げる。
これなら、少なくとも「捨てられた」という経験をしなくて済む。
嫌いだから逃げるわけじゃなく、大切じゃないから離れるわけでもない。
一番大切なものを失うのが怖い。
その恐怖から、自分を守るために離れてしまう。
そう考えると、充の「逃げる」という行動が、とてつもなく切なく思えてしまいますね。
安心・安定がなぜか恐怖に
二人で家を買う話になったとき、充の中にまた「逃げたい」という感覚が出てきます。
「ここに一生、二人きり。もう逃げられない」
この言葉は、面白くもあり、この感覚がわかる人には深くわかるのではないか?と、思ってみていました。
咲子には深い愛情があったし、二人の生活が嫌だったわけではないから、10年ほどは、逃げずに一緒に暮らしていた。
それでも、「この先ずっとここにいる」という現実を目の前にしたとき、充の中にある喪失感と表裏一体のような感情が芽生える。
安心できる場所ができたから、その場所を失うことが怖くなる。
そういった感覚は、とても苦しいものです。
人との深い心のつながりを求めている一方で、近くなるほど怖くなる。
安心したいのに、安心することに違和感がある。
愛着に傷を抱えている人の中には、こういう矛盾を抱えている人がいます。
咲子自身も抱える愛着の傷
蒼井優さん演じる咲子にも、それまでの人生があり、
過干渉が過ぎて娘の意志を尊重しない母。
母親に自分の意志を上書きされることに対し、抵抗感と強い嫌悪感を持つ咲子。
物語の終盤で、咲子には複数の離婚経験があることが分かります。
充は「自分の居場所を突然奪われる」ことが怖い。
咲子は「自分の居場所に勝手に入り込まれ、自分自身を決められる」ことが苦しい。
この二人は惹かれ合い、お互いの支えにもなっていました。似たような傷を抱えているからこそ分かり合える部分がある一方で、相手に求めているものは微妙に噛み合っていなかった。
愛着に傷を抱えている人同士って、妙に分かり合えることがあるから、
「この人も、自分と同じようなものを抱えているんだな」と感じる。
自分の中にある寂しさを、相手も知っているような気がする。
それは、とても強いつながりになることがあります。
ただ、深く分かり合っていても、一生一緒に暮らせるわけでもないから難しい…
「嫌われたくない」と「逃げたい」
咲子は、充との関係を維持するため全力で向き合おうとする。
充は、関係が深まるほどに息苦しくなり逃げたくなる。
二人の行動はまったく違うように見えます。
ですが、角度は違えどどちらも強く「失いたくない」という気持ちがあるように見えました。
咲子が関係をつなごうとすればするほど、充は苦しくなる。
充が距離を取れば、咲子は手がかりを集め必死に充を追いかける。
二人とも相手を傷つけたいわけじゃないのに、結果的にはお互いの古傷を刺激してしまう。
ここが、愛着のクセの難しさなのではないでしょうか?
「相手のことを深く理解する」だけでは、関係は続かない。
むしろ、わかろうとすればするほど詰んでしまうことだってあります。
そしてなぜだか、お互いの傷に全く触れないまま新しい関係を築くことでうまくいっているパートナーシップも確かに存在するものです。
ラストシーンの「別れよっか」
二人が最後に別れることになったとき、あー、なんかほっとしたわ…と、感じたのは私だけではなかったように思います。
「これでいいんじゃないかな」と。
作中の二人を見ている間、あのやわらかいコメディタッチのストーリーや台詞の中でも、なぜか一種不気味な緊張感を感じた人もいることでしょう。
このまま一緒にいたら、完全に沼るでしょこの二人。
全部をテーブルの上に乗せた瞬間、積み上げたものがガタガタと崩れてしまうのでは?
そんなことを感じながら観ていました。
だから「別れよっか」という台詞と茶目っ気のある咲子の表情に、ふっと力が抜けた。
悲しいのに、なんという安堵感。
終わってしまったのに、「これでよかった」と思える。
あの感覚は、すごく印象に残りました。
別れにも愛がある
恋愛や夫婦の関係って、続けば成功、別れたら失敗、みたいな二元論で語られることも多いのですが、そんなに簡単なものじゃないんですよね。
愛着にトラウマを抱えた者同士だから、誰よりも深く分かり合えることもある。
一緒にいることで「この人で良かった」と、救われる時期もある。
でも、相手の傷を分かってあげることと、その人と安心して関係を築けることは、やっぱり別のことだから。
ときには、離れたほうがお互いのためになる関係もあるし、
「これ以上、お互いを傷つけないために離れる」という選択もある。
二人は、それぞれのやり方で何とか関係を続けようとしていた。
でも最後には、愛しているけど、その息の詰まるような関係から降りることを選んだ。
私は、そこにこの作品の切ない響きと奥ゆかしさがあるように思います。
そして同時に、あの「別れよっか」にホッとしたのは、
二人の関係が破綻したからとかそんなことではなく、
二人がようやく、この関係の中で十分に成長した自分たちを解放して、それぞれの人生に戻っていけるように感じたから、なのかもしれません。
ルーム718|心理カウンセラーとして活動しています

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